拝観時間は午前7時~午後5時、無料。
キレイに手入れされた境内を奥へ進みます。
立派な石塔が秀次の墓か、朝日新聞の記事を参照。
(古都ぶら)豊臣秀次一族の悲劇 処刑跡地を伝え続ける
京都市中心部を流れる高瀬川沿いに発展した木屋町通。飲食店が並び、活気にあふれる京都随一の繁華街だ。その一角にひっそりとたたずむ寺が、ずっと気になっていた。よく行く牛丼店のそばにある瑞泉寺。門前の石碑には「豊臣秀次公之墓」と刻まれている。なぜ、ここに――。思い切って、山門をくぐった。
境内に入ると、静寂の空間が広がっていた。石畳の先に、本堂がそびえる。出迎えてくれた住職の中川龍学(りゅうがく)さん(54)によると、この地はかつて、鴨川やその支流に囲まれた中州だったという。「本堂から三条大橋あたりに処刑場があったそうです。想像できませんよね」。中川さんはそう言うと、400年以上前の悲劇について教えてくれた。
石碑にあった秀次は、豊臣秀吉の姉の子。後継者として秀吉の養子になり、関白になった。だが、秀吉に実子の秀頼が生まれたころから関係が悪化。謀反を疑われて高野山に追放され、1595年に自害した。残された秀次の子や妻らが処刑された。一族を弔うため、跡地に建立されたのが瑞泉寺という。「瑞泉」は秀次の法名から取った。
なぜ、妻らはこの地で処刑されたのか。中川さんは「多くの人の見せしめにしようと思ったのでしょう」と推し量る。処刑される5年前、秀吉の命令で、鴨川に三条大橋がかけられた。そのため、周囲の往来が激しくなっていたという。
「見せしめ」説を裏付ける資料があるといい、寺に残る絵巻を見せてくれた。白装束の女性や子どもらを乗せた牛車の周りには、それを見つめる人たちの姿が描かれている。合掌する女性や子どもに対し、男が刀を振りかざす場面でも、周囲で多くの人たちが見守っている。みな、もの悲しそうに見える。
息子4人と娘1人、側室として仕えた女性ら34人の計39人が処刑され、大きく掘られた穴に投げ込まれたと伝わる。目撃した町衆らは嘆いたといい、中川さんは「一族への同情の目で見つめていたのでしょう」。
境内の奥に、秀次の一族をまつった石塔があった。中央には秀次の首を納めたと伝わる石を安置し、それを囲むように、秀次に殉じた家臣10人と一族39人の石塔を建てたという。中川さんは力を込める。
「瑞泉寺は秀次一族をまつる寺です。秀吉は戦国の英雄として人気ですが、女性や子どもを殺すのは間違い。それをこの地で伝え続けていくのが私の役割だと思っています」
秀次はいないし、一族39人の遺体も埋まっていない?